虚無的な思考は罪悪である
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」著:パスカル「パンセ」より
高校時代に専攻した倫理の教科書のなかで、パスカルという男は上記のようなことを述べた。ひとは自然界のなかでは弱いけど、考えることができるから立派だよって。
本当にそうだろうか。果たして思考することとは、それほど立派なことだろうか。
解決策を既に得ておきながら、何とかならないものかとひとつの物事について思考する。ちょうど、ぐるぐると回転する木馬たちのように。堂々巡りのそれは、まさしく「時間の無駄」と言えるだろう。
しかし、私は病的に思考し、悶々と思案する。これは果たして「偉大」と呼べる行為だろうか。
思考ではなく生存のために野を駆け、地を這い、獲物を狩る獣のほうがよっぽど「偉大」であるし、「有意義」であると思う。彼等の、無駄な贅肉がついていない魂のほうが私のそれよりもずっと健康的で、うつくしいと思う。
それでも私が獣ではなく人である限り、そして脳細胞が死滅しない限り、思考せずにはいられない。それがどれほど不健康で、無駄な行為であったとしても。
考え事をするならひとりがいい。それから、静かで、きれいな場所がいい。
そう思い、私は詩仙堂を訪れた。紅葉前はひとが少ないと聞いていたからだ。
それでもやはり観光客は多い。休日だからか、小さな子供も多かった。
観光客は庭を眺めながら写真を撮り、口々に「紅葉はまだね」、「残念だ」と繰り返して去って行く。
私は縁側の隅に腰を下ろし、彼等の会話に時折耳を傾けながら、ぼんやりと色付け始めた葉や、丸々と実った柿を眺めていた。
思考して、思考して、思考して。
時折ふっと、意味を持たない涙が溢れそうになるのを堪えて。それからまた思考して。
そうして二時間ほどが過ぎた頃、虚しいだけの思考の旅路は、やはり「ちゃんとしないと駄目だなあ」という答えで帰結する。
「ちゃんとする」。「きちんとする」。
きっとそれは大人として、ひとりの人間として、そして私として生きていくために大切なことだろうと理解している。理解しているはずなのに、それができない自分がいることに気づく。そういった自分の存在があまりにも重く、私の胸をぎりぎり締めつける。
現状が辛い。
しかし、具体的に「何が?」と問われると途端に口を噤んでしまう。
世の中には私よりも辛い環境に身を置きながら、努力してそこにしがみつこうとしているひとがたくさんいることを知っている。そしてそのなかで心を病んでしまうひとがいることも。
私はそういった彼等よりもずっと恵まれた環境にいて、心を病んでいるわけでもないのに、ただただ辛く、悲しいと感じてしまう。これはただの甘えであり、罪悪の類のものだ。そう、わかっているはずなのに。
わかっていたはずなのに、私は何もかもが耐えきれなくなってしまったらしく、家と職場で泣いた。
家では隠れて泣いたが、職場では多くのひとの前で泣いてしまった。これは非常に恥ずべきことである。社会人として勤めておきながら、その自覚が足りず、堪えきれなかったのだ。
その一件以降、職場のひとたちは私に気遣い、「元気出して」と声をかけるようになった。本当にありがたい環境である。
しかし、彼女(ないし彼)達の言葉や気遣いは私にとってとても申し訳なく、そして息苦しいものでしかなかった。具体的な理由のない苦しみに対する励ましを、私は上手く消化することができないのだ。
いまの私にできることと言えば、一刻も早く立ち直り、以前のように笑って勤めることである。また、「ちゃんと」できるように努力することである。
「前を向いて歩いて行こう!」なんて私は思わない(さ、できない)が、前を向いて歩いてる「ふり」だけでもできなくてはならないと強く思うのだ。
詩仙堂丈山寺