「完璧」≒「不完全」
「完璧であれ」。
そう躾けられたわけではなかった。
それでも、「真面目にしなさい」、「ちゃんとしなさい」と耳にできたタコすら逃げてしまいそうなほど言われてきたのは事実である。
きっとこれは私の家庭だけではなく、だいたいどこの家庭でも似たような(あるいはもっと厳しいことを)言われ、かつて子供だった私たちが大人と呼ばれるものになったのだろう。
無神論者であるはずの母は、よく「真面目にコツコツ生きていたら、神様はきっと見てくれてるから」と繰り返していた。
私だって都合のいい時は神様を信じるし、信じたくなくなる。だから無神論者のくせに、と彼女を詰ったことは一度もなかったし、その言葉に反抗したこともなかった。
神様。
完璧な存在であろう彼(もしくは彼女)のために、そして母に叱られないために、私は不完全ながらにも「真面目にコツコツ」生きてきた。生きてきたつもりだった。
しかし、最近の私はどうだ。「真面目」とは言い難く、「完璧」からは程遠い。職場で幾度も泣き、迷惑をかけ、挙げ句の果てには短期休職という選択肢を取らざるを得なくなった。なんと情けない。我ながら本当に情けない。
休職のことはとてもではないけれど母には言えず、曖昧な言葉で濁して逃げ回っている。こういうとき、不規則な勤務で非常に助かったと思う。
もしも母に休職の話をすれば「もっと真面目にしなさい」、「もっとちゃんとしなさい」と叱咤されるに違いない。それが恐ろしい私は、点数の低いテストをランドセルの底に仕舞い込む小学生と何も変わらない。むしろ母に何かを隠すということは悪だと躾けられていた小学生の頃ほうが、素直に母からの怒りを受け止めていた分、今の私より優秀だったのではないか。
大人ってずるい。あまりにもずる賢い。
逃げ道ばかりを探して、困難に立ち向かおうとしない。完璧を目指そうともしない。辛いことだけつらつらと並べ、幸せなことをひとつずつ忘れてしまう。そして自分の生い立ちや環境に不平不満を述べ、他人の人生や能力を妬むばかり。
あーあ、情けない。私の想像していた大人ってこんなものだったっけ? 小学生や高校生の頃の私が今の私を見たら落胆するだろうか?
閑話休題。
先日赴いた京都で、私とは違い、「完璧」に近しい食事をした。オムライスだった。
黄色の卵でくるんと包まれたケチャップライスは、鶏肉やしめじ、舞茸にえのき、玉ねぎと具沢山だ。
エビフライやコロッケもさくさくで美味しかった。
オムライス、いいなあ。
久しぶりに食べたけど、本当に美味しかった。
まるさか洋食堂