あまい青春 にがい青春
炭酸がパチパチと弾けるような、
花火がパッと咲いて散るような、
そんな眩しい青春が私にもありました。
すべての学生がそうであるように、私は私の学生時代すべてが幸福だったわけではありません。
かなしいことも、つらいこともありました。
うれしいことも、輝かしいこともありました。
それらの思い出を糸にして、機織機は大きな布を作っていきます。その布は青春と呼ばれるものでした。
私を含めた大人たちは時折その布を箪笥から引っ張り出してはしげしげと眺め、「ここはこういう模様だったな」とか「こういう色じゃなかったっけ」などとぼやき、またそれを箪笥の奥に仕舞い込むのです。
閑話休題。
ところで前回も記しましたが、先日、箱根旅行に行ってきました。
私は旅先にあるカフェに行くのがすきなので、もちろん箱根でもカフェ巡りしてきました。お供は元同僚さんです。
箱根湯本に行ったら絶対に行きたいと思っていた「Timuny.」さん。
ででーん。
注文したのはチーズケーキとホットレモネードです🍋 こちらケーキセットでして、併せて850円でした。安い。
ちなみに元同僚さんの飲み物はチャイでした。
ホットレモネードというと甘酸っぱくて、まるで学生時代に味わう初恋みたいなイメージが強いわけですが、こちらのレモネードは酸味がとても少なく、飲みやすいんです。
もしかすると初めて好みの味のレモネードに出会ったかも、と思えるぐらい好みの味でした。レモネード、そんなに飲んだことないですけど。
チーズケーキは言わずもがな、すっごく美味しいんですよね。ゆっくりゆっくり食べたいのに、ついフォークが進んでしまい、あっという間になくなってしまうタイプのやつです。
このお店、フードメニューも美味しそうだったんですよね。特にチーズが挟まったサンドイッチ…。
念願のお店に行けてよかったな。
次に箱根に来たらまた寄ろう。そう強く思いました。
モデルは元同僚さん。
普段写真撮らないのに、今回の旅行では私に併せてか、たくさん撮ってて嬉しかったな〜。
Timuny.
安堵とほんの少しの罪悪感
突然ですが、仕事を辞めました。
正確に言えば、「辞めさせられた」、でしょうか。
ただ私にも限界が来ていたのも事実だったので、私は逃げ出すようにして、そして追われるようにして職場を去ったのです。去らざるを得なかったのです。
そして仕事を辞めて2日か3日たった頃、私は「元」が前方に付くようになってしまった同僚さんと旅行に行ってきました。
これは突破的に決まったものではなく、半年くらい前、つまり仕事を辞める前から「この時に夏休みを取って旅行に行こう」と計画していたものでした(私の「元」職場は、6月から12月までの間に6日間、夏休みを取らなければならないのです)。
旅先は私の大好きなディズニーリゾートと、初めて訪れる箱根の地。
ここでは箱根での思い出話をちらほらと。
宿に選んだのは芦ノ湖の側にある、「箱根・芦ノ湖 はなをり」さん。
箱根・芦ノ湖のホテル・旅館なら、箱根・芦ノ湖 はなをり【公式】
まずはロビーのお写真をどどんどん。
芦ノ湖を臨む、大きな窓。ふかふかのソファ。
このようなお宿は初めてだったので興奮しちゃいますね。ふふふ。
続いて足湯コーナー。
12月の箱根は寒いですけど、春先なんかは気持ちよく足湯に浸かりながら、ぬぼ〜っと芦ノ湖を眺めれるでしょうね。
またこちらの水盆はインスタ映えでも有名ですね。私は外観だけ撮りましたが。
お部屋はこんな感じ。
私たちは湖畔側のお部屋だったので、きれいな景色を独占できました。ちなみに4枚目の写真は夕方頃のものです。
荷物を置き、浴衣に着替えたら、さあ出陣。
そう、待ちに待ったお夕飯の時間です。
はなをりさんは朝夕食共にビュッフェ形式です。
まず、渡された竹籠に好きな前菜を8品選べます。特に柿とクリームチーズのなんとか(…)が美味しく、2つ食べちゃいました。
また、その日の肉料理と魚料理は人数分を注文すると係の方が座席まで運んで来てくれます。お肉は柔らかいし、お魚は味がしゅんでるしで美味しかったな〜。
ご飯もデザートもたっぷり食べ、お酒もほんの少し飲み、ほろ酔い気分でお部屋へ戻りました。
そしてふたりで酔いを覚ましたあとは温泉へ向かいます。思ったよりも混んでなくて、伸び伸び過ごすことができました。
翌朝5時から入浴可能だったので、ベッドから離れようとしない元同僚さんを放置し、ひとりで朝風呂にも入っちゃいました。
その温泉の近くにあるのが、この可愛い暖簾と標識。お風呂上がりにはここでマミーを買い、ぐいっとそれを呷りました。
もちろん朝ご飯も、もりもり食べました。
写真に載ってないものだと、焼き立てのクロワッサンやパンケーキが美味しかったなあ。本当にいくらでも食べちゃえるぐらいだったので、ずっと食べてました。
旅行の最中、楽しかったなあ、楽しいなあ、と思いながらも、頭を過ぎるのは「仕事を辞めてしまった」という現実。
毎朝職場に向かうのが憂鬱で、線路に飛び込んでしまいたい、事故に遭いたいという気持ちを押し殺してホームに立っていました。
しかし仕事を辞めたいま、止めどなく溢れるのは「もっと頑張れたんじゃないか」、「なんで逃げてしまったんだろう」という想いたち。
先輩は誰ひとりとして私を虐めなかったし、同期との仲も良好でした。後輩もいい子たちばかりで。本当に恵まれた環境でした。
それなのに、私は逃げ出してしまった。
そのことに対する後ろめたさがいつまでも影のように私の後ろをついてくる。ひたひたと、まるで従順な従者のように。
職場の最寄駅に立つといまでも苦しい。ざわざわします。でもそれってきっと、逃げ出したことへの罪悪感を苗床に発生したんでしょうね。
あんなにいい環境だったのに。おまえが頑張らなかったせいで。周りに迷惑ばかりかけやがって、と。
私はこの罪悪感から解放されることはないんだろうなって思います。自業自得ではありますが。
とにかく私は次の職場を探さなければならなくなりました。
おそらくこれまでと同じ業種には就けないでしょう。
初心者として、またイチから努力せねばならないのです。今度こそは、絶対に、必ず。
箱根・芦ノ湖 はなをり
「完璧」≒「不完全」
「完璧であれ」。
そう躾けられたわけではなかった。
それでも、「真面目にしなさい」、「ちゃんとしなさい」と耳にできたタコすら逃げてしまいそうなほど言われてきたのは事実である。
きっとこれは私の家庭だけではなく、だいたいどこの家庭でも似たような(あるいはもっと厳しいことを)言われ、かつて子供だった私たちが大人と呼ばれるものになったのだろう。
無神論者であるはずの母は、よく「真面目にコツコツ生きていたら、神様はきっと見てくれてるから」と繰り返していた。
私だって都合のいい時は神様を信じるし、信じたくなくなる。だから無神論者のくせに、と彼女を詰ったことは一度もなかったし、その言葉に反抗したこともなかった。
神様。
完璧な存在であろう彼(もしくは彼女)のために、そして母に叱られないために、私は不完全ながらにも「真面目にコツコツ」生きてきた。生きてきたつもりだった。
しかし、最近の私はどうだ。「真面目」とは言い難く、「完璧」からは程遠い。職場で幾度も泣き、迷惑をかけ、挙げ句の果てには短期休職という選択肢を取らざるを得なくなった。なんと情けない。我ながら本当に情けない。
休職のことはとてもではないけれど母には言えず、曖昧な言葉で濁して逃げ回っている。こういうとき、不規則な勤務で非常に助かったと思う。
もしも母に休職の話をすれば「もっと真面目にしなさい」、「もっとちゃんとしなさい」と叱咤されるに違いない。それが恐ろしい私は、点数の低いテストをランドセルの底に仕舞い込む小学生と何も変わらない。むしろ母に何かを隠すということは悪だと躾けられていた小学生の頃ほうが、素直に母からの怒りを受け止めていた分、今の私より優秀だったのではないか。
大人ってずるい。あまりにもずる賢い。
逃げ道ばかりを探して、困難に立ち向かおうとしない。完璧を目指そうともしない。辛いことだけつらつらと並べ、幸せなことをひとつずつ忘れてしまう。そして自分の生い立ちや環境に不平不満を述べ、他人の人生や能力を妬むばかり。
あーあ、情けない。私の想像していた大人ってこんなものだったっけ? 小学生や高校生の頃の私が今の私を見たら落胆するだろうか?
閑話休題。
先日赴いた京都で、私とは違い、「完璧」に近しい食事をした。オムライスだった。
黄色の卵でくるんと包まれたケチャップライスは、鶏肉やしめじ、舞茸にえのき、玉ねぎと具沢山だ。
エビフライやコロッケもさくさくで美味しかった。
オムライス、いいなあ。
久しぶりに食べたけど、本当に美味しかった。
まるさか洋食堂
虚無的な思考は罪悪である
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」著:パスカル「パンセ」より
高校時代に専攻した倫理の教科書のなかで、パスカルという男は上記のようなことを述べた。ひとは自然界のなかでは弱いけど、考えることができるから立派だよって。
本当にそうだろうか。果たして思考することとは、それほど立派なことだろうか。
解決策を既に得ておきながら、何とかならないものかとひとつの物事について思考する。ちょうど、ぐるぐると回転する木馬たちのように。堂々巡りのそれは、まさしく「時間の無駄」と言えるだろう。
しかし、私は病的に思考し、悶々と思案する。これは果たして「偉大」と呼べる行為だろうか。
思考ではなく生存のために野を駆け、地を這い、獲物を狩る獣のほうがよっぽど「偉大」であるし、「有意義」であると思う。彼等の、無駄な贅肉がついていない魂のほうが私のそれよりもずっと健康的で、うつくしいと思う。
それでも私が獣ではなく人である限り、そして脳細胞が死滅しない限り、思考せずにはいられない。それがどれほど不健康で、無駄な行為であったとしても。
考え事をするならひとりがいい。それから、静かで、きれいな場所がいい。
そう思い、私は詩仙堂を訪れた。紅葉前はひとが少ないと聞いていたからだ。
それでもやはり観光客は多い。休日だからか、小さな子供も多かった。
観光客は庭を眺めながら写真を撮り、口々に「紅葉はまだね」、「残念だ」と繰り返して去って行く。
私は縁側の隅に腰を下ろし、彼等の会話に時折耳を傾けながら、ぼんやりと色付け始めた葉や、丸々と実った柿を眺めていた。
思考して、思考して、思考して。
時折ふっと、意味を持たない涙が溢れそうになるのを堪えて。それからまた思考して。
そうして二時間ほどが過ぎた頃、虚しいだけの思考の旅路は、やはり「ちゃんとしないと駄目だなあ」という答えで帰結する。
「ちゃんとする」。「きちんとする」。
きっとそれは大人として、ひとりの人間として、そして私として生きていくために大切なことだろうと理解している。理解しているはずなのに、それができない自分がいることに気づく。そういった自分の存在があまりにも重く、私の胸をぎりぎり締めつける。
現状が辛い。
しかし、具体的に「何が?」と問われると途端に口を噤んでしまう。
世の中には私よりも辛い環境に身を置きながら、努力してそこにしがみつこうとしているひとがたくさんいることを知っている。そしてそのなかで心を病んでしまうひとがいることも。
私はそういった彼等よりもずっと恵まれた環境にいて、心を病んでいるわけでもないのに、ただただ辛く、悲しいと感じてしまう。これはただの甘えであり、罪悪の類のものだ。そう、わかっているはずなのに。
わかっていたはずなのに、私は何もかもが耐えきれなくなってしまったらしく、家と職場で泣いた。
家では隠れて泣いたが、職場では多くのひとの前で泣いてしまった。これは非常に恥ずべきことである。社会人として勤めておきながら、その自覚が足りず、堪えきれなかったのだ。
その一件以降、職場のひとたちは私に気遣い、「元気出して」と声をかけるようになった。本当にありがたい環境である。
しかし、彼女(ないし彼)達の言葉や気遣いは私にとってとても申し訳なく、そして息苦しいものでしかなかった。具体的な理由のない苦しみに対する励ましを、私は上手く消化することができないのだ。
いまの私にできることと言えば、一刻も早く立ち直り、以前のように笑って勤めることである。また、「ちゃんと」できるように努力することである。
「前を向いて歩いて行こう!」なんて私は思わない(さ、できない)が、前を向いて歩いてる「ふり」だけでもできなくてはならないと強く思うのだ。
詩仙堂丈山寺
逃げ出すための旅
「私には自殺願望はない。でも、それがいまではなぜいけないんだろう、と思うことがある。(中略)そして、死はほとんどお菓子のような気軽さで、私を誘惑する。」著:江國香織 「ウエハースの椅子」より
この言葉、文章、そして込められた想いについて思考する。思考した後、「確かに」と納得する。
死にたいわけではない。
けれど、生きていたいわけでもない。
これが私の根幹にある思いであり、願いであり、本質である。
ここ二週間ほど、仕事を辛いと思う日々が続いている。
職場の同僚や先輩から嫌われているわけでも、疎まれているわけでもない。過重労働をさせられているわけでも、不当な扱いを受けているわけでもないのに、だ。
もともとやりたいことはなく、「なんとなく」で就いた職ではあった。「なんとなく」で始めたら「それなりに」続けることはできていた。
しかし、不意に訪れる、「ここではないどこかに行きたい」、「逃げ出してしまいたい」、「辞めたい」という気持ち。あるいは叶うことのない願望。
確か去年にも同じようなことがあり、嘔吐が続いた結果、ストレス性の胃炎だと診断された。
「ストレス」
私はその言葉が嫌いだった。それは免罪符のような顔をしていながら、その実、ただの逃げ道のような気がしてならなかったからだ。
そう思うのは、母がむかし、友人関係のストレスで生理不順を起こした私に対し「こどものくせに、何がストレスよ」と笑ったからだろう(生理不順は十年近くたったいまも続いている)。
母の言葉を契機に、「私はストレスを感じてはならない」=「ストレスという言葉を用いてはならない」という思考が私のなかで根付いた。きっとこれは今生で刈り取ることはできない種だろう。それほど根深く、私の薄い胸のなかにこびりついている。
ところがやはり「仕事を続ける」という、近年を生きる人間として当然の義務から解放されたいという安らかな甘えが、私に頭痛を起こし、吐き気を催させる。
そんな毎日から逃げ出したい一心で私は京都に行った。現実から離れられるならどこでもよかったが、京都は近場な逃避行場所として最適であった(京都を一日訪れただけで責務から逃げ出すことはできないのだけれど)。
その旅の始まりに、私は「逃現郷」という喫茶店を選んだ。
単純に店名に惹かれたからである。
本当はオムライスかホットサンドが食べたかったのだけれど、それらは11時からの提供らしく、私が訪れた時にはいただけなかった。
ただし、カレーとトースト類、ハムエッグやサラダは朝からいただけるらしい。
少し悩んだ後、私はハニーバタートースト(350円)とブレンドコーヒー(400円)を注文した。
ハニーバターが染み込んだトーストが6枚。
1枚、また1枚と食べ進めていくと、あっという間にお皿は空っぽ。ああ、なんて美味しかったんだろう…。
特別な「何か」がなくても、この朝食が幸福のひとつだということを知る。
静かすぎず、うるさすぎないこの空間を私はすぐに愛してしまった。
次こそはオムライスとホットサンドにありつけますように。
再訪を、必ず。
珈琲 逃現郷